artzone

Archive

鬣くん、最近どんな絵を描いているの?

2014.8/6〜10

展覧会概要

タイトル: 鬣くん、最近どんな絵を描いているの?

会期: 2014.8/6〜10

時間: 平日 13:00〜22:00 / 土日祝 12:30〜22:00

会場: ARTZONE

企画: 堤 拓也 (ARTZONE ディレクター)

2014年5月28日

大学1回生の頃から付き合いがある鬣くん。
良い作品をつくったときも、とてつもなく悪い作品をつくったときも、
だいたい傍でみてきた。 でも近頃、2人とも大学を卒業して時間が経ち、
生活環境が変わったこともあり、鬣くんが何に興味があって、どんな絵を
描こうとしているのか、前ほどわからなくなった。

今回の『鬣くん、最近どんな絵を描いているの?』は鬣くんの絵の展覧会に
しようと思う。ARTZONEで、鬣くんと僕と作品の三者で話をしてみたい。

だがひょっとすると、もう絵なんて描いてないかもしれない。
たまにそういった不安が頭をよぎる。
もし彼が描かなくなったら、僕と鬣くんのあいだに横たわっているものは
なくなってしまうのだろうか?
キュレーターと、つくらなくなったアーティストとの関係はどうなるのだろう?

 

2014年6月28日

久しぶりに鬣くんのアトリエを訪れる。
でも実は、1週間ほど前の鬣くんがいない間に、こそっと制作現場を
のぞいていた(なぜか僕は合鍵を持っている)。
やっぱり、会ったときに絵を描いていないことがわかったり、とてつもなく
悪い作品が置かれていたりしたら困る。
罪悪感を感じながらも、描いているなあと安心したかったのだ。

そんな先回りの確認があって、今日の打ち合わせがある。
作品はどうなっているか。 展示はどうするのか。 DMの写真はどうしよう。
ふわっとした話をする(鬣くんは展示直前になると、もっとふわっとした話をするだろう)。
絵については、正直、まだ少しぬるい感じがする。 筆を置くタイミングが
早すぎるのだ。 もう少し粘ればいいのにといつも思う。
昔一緒に展覧会をしたときに、とあるアーティストに言われていた言葉を
思い出す。 「鬣の絵は本当にわきが甘いなあ……」

……そのときに比べれば、多少エッジがあるかもしれない!
自分に無理矢理言い聞かす。 そういった思い込みが必要だと素直に認めよう。
だって、友人の絵を良く思いたいのはしょうがないじゃないか。

 

2014年7月14日

鬣くんの絵を軽自動車のルーフに乗せて、とりあえず出発してみる。
目的は良い感じの場所。 それを背景に絵画を撮ろうというアイディアだ。
どちらが言い出したのかは覚えていない。

良い風景と言えども、鬣くんと僕が想像しているものは絶対に違うだろう。
設置の仕方も違う。 それぞれの意見を調整しつつ、京都の北を目指す。
鬣くんはこのあたりに来たことがないらしく、集落や大量の杉を見て興奮
ぎみだ。 運転している僕も楽しくなってくる。
深い森の中、イメージに合った撮影スポットめがけて、どんどん進んでいく。

けれども、どこで撮影すれば良いのかわからなくなってきた。
森を背景に、あるいは激流を背景に撮影できなくもないが、何かが違う。
7月中旬の蒸し暑さの中、ルーフから絵を降ろして、また結びつけてを繰り返す。
細い道でUターンし、来た道を戻るも、いざ車を止めてみると、案外良い風景ではないことに気がつく。

鬣くんの絵を乗せて、僕たちは一体どこへ向かっているのだろう?
アーティストとキュレーターの関係は、こんな感じなんだろうか?

 

2014年8月27日

展覧会が終わって17日目。
たった5日間だけの展示というのは、写真では大したものとして残っていくのかもしれないけれど、意外と記憶の方ではあっさりした印象で留まっている。
一体、自分も含めどれくらいの人が鬣くんの作品のことを覚えているのだろう?

作品を公的に見せる「展覧会」という空間を良しとするのなら、展覧会を開催したキュレーターの功績は大きい。自分が見出した状況をみんなに説明をする際は、ほど良い優越感に浸れるだろう。でも、展覧会初日に鬣くんが口にした「なんか寂しい感じがするなあ…」という言葉は、人があまり観に来てくれないという単純な理由ではなくて、きっと鑑賞されることによって、自分と作品との間に他者性が生まれ、個人的な世界を理解するための世界との関わり方が、不意にずれてしまったからだと思う。
もし展覧会が始まる5日前あたりで、5日ほど会期がずれ込むことが決まって、それが永遠に続けば鬣くんは寂しい想いをしなくて済むかもしれない(そもそも、そんな不義理なことをしたら僕らの関係は終わる)。けれども、それでは鬣くんが公的な場で、アレントの言うような卓越を示すことはできない。多くの人に見られ、聞かれ、自由に判断し得ないものは、当然、人々の認知も記憶もない。

でもそんなものなくたって、世界との確固とした関係があれば生きていけるじゃないか、とも思う。むしろ、「公的領域=展覧会」自体が彼のその独特の方法論を奪い去っていくかもしれない。それによって、鬣くんは絵を描かなくなる可能性がある。世界との関係が切れる。
しかし、それは展覧会の性質なのか? いや、違う。正直に書くべきだ。もし彼なりの世界の理解の仕方、その総体を奪い取るとすれば、それはキュレーターによるだろう。つまり、僕の、彼を私的なところからパブリックに連れて来なければならない、という変な理屈によって、彼の意志が別のものにすり替わってしまうのだ。「作品をまっとうに見せたい」とか「僕しか彼を理解できない」とかが、結果的に個体差を悪い方向に持って行く。

そんな構造で考えたときに、僕と鬣くんの関係はどうなんだろう?

最後に会ったのは搬出のときだから、8月11日。それから会っていない。でも、一昨日用事でスタジオに立ち寄った際に、今から描こうとしている小さな円形のキャンバスが目の片隅に映っていたのを覚えている。

 

 

2018720


展覧会が終わって1,440日が経った。その間にシリアでは内戦が泥沼化し、ISISがテロを通じてプレゼンスを高め、イギリスがEUからの脱退を決定し、アメリカではトランプが大統領になった。国内においては相変わらず自公が圧勝していて、数々の運動がその度に生まれては消え、周期的に起こる地震と計ったように来る台風が全てを忘却の向こう側へ飛ばしてしまった。その間にも僕は色々な展覧会を企画し設営しては解体し、ときに完全なる失敗を経験しつつ、仕事を辞めて、なぜかポーランドに住むことになった。僕はいま、鬣くんの絵を以下の言葉を用いて肯定できる。


1


少し前までの研究では岸田劉生がその役を与えられていたようだが、高橋由一が日本西洋絵画の父であることに異論はないと思う。彼は武士として生まれ、西洋画の実践と、普及とその教育と、さらにはそれを展覧する施設まで構想したが、彼が目標とする地点まで到達せず没した。高橋が西洋画を身体化し、それを制度化していく途中に明治維新が起こり、フェノロサの日本画優位論によって西洋画が一時的に下火となった時期もあった。教育施設のための予算工面もうまくいかず、それに追い打ちをかけるような日本主義傾向には辟易したはずだ。当時の日本が憧れて成りたくてどうしようもなかった西洋からの哲学者にヴァナキュラーな美意識を肯定されては、現代の日本人ですら積極的に否定はできるまい。龍池会会員、および西洋と日本の狭間で少しでも早く結果を出したかった芸術家たちは、たちまちフェノロサの言うことに同調し、恥ずかしながらも自己肯定感と幸福感に満ちあふれて仕方なかっただろう。とはいえトータルとして高橋の功績は計り知れず、その日本画家たちも含めて、われわれはその上に起立している。


彼の半生において興味深いのが、そもそも西洋画における形式と、それが扱える内容、オイルペイントの写実性とカンバスの永遠性の高さに感銘を覚え、いざ日本においても体系化せんとするにいたったそもそものきっかけが、実はとある石版画(リトグラフ)を観た経験によるとされていることである。残念ながら現在の研究ではいったいどんな作品だったか解明されていないが、西洋絵画から直接影響を受けたわけではなかったということが、日本の西洋絵画史を理解する上で重要なように思われて仕方がない。第一に言えるのが、この来歴では、絶対的に日本における西洋芸術の起源を辿ることができないということだ。我が国の研究が、日本西洋絵画の祖は高橋由一という人物であるという共通認識まで到達しつつも、そのリトグラフと高橋が実践しようとした西洋絵画の間に、まず溝がある。ゆえに彼が日本の国内で直視した、鮭も、三種の豆腐も、山形の街並も、花魁も、甲冑も、リトグラフへの憧れとともに、日本西洋絵画として定着した。


2


鬣の絵画の特徴は、なんといっても濁った色彩と、曖昧なアウトラインと、成就しそうになっては断念され、かつまた突如現れる準スタイルあるいは偽スタイルである。ここにおいての「スタイル」とは、特定のテクスチャーがそのまま作者に結びつく代名詞となるような技法性もしくは視覚性のことを指している。つまり準スタイルと偽スタイルとは、それが絵画上におけるある程度の美的効果を認めつつも、かといってそこに鬣を積極的に明示するほど洗練され、なおかつ主題化された構成や、モチーフや、タッチや、テクニックが認めづらいことを形容している。とはいえ、そもそも「スタイル」とはなんぞや、と言わば自嘲ぎみに書いている。本来は作品に、その作者の印などを間接的に乗せる必要などまったくないのだが、流通と再大多数の認知を夢見た場合、それが第一義として目指されてもおかしくない。ちなみに、私がかつてこの日記に書いた鬣の絵に対する「わきが甘いなあ」といった評価軸は、あくまでもこの文脈においてである。


鬣の絵画において、それは一切目指されてはいない。むしろ、洗練とスタイルの成就から遠ざかることを目的として描かれているようにも思える。画面上に現れては忘却され、またまるでその場で思い付いたかのように再び現れる準・偽スタイルは、美術によくある言語運用をすると「遊戯性」と命名することもできよう。だがその言葉使いは、少なくとも鬣の絵画においては不適当である。なぜなら彼は「遊戯」しているわけではなく、本当に忘却しては、また最初から筆を握って油絵の具を調色し、正面に直立する矩形に向かっている。しがしながら私は彼にアウトサイダー性を添付しようとしているわけではない。むしろ、完全に真逆である。鬣が絵画作業を通じて行っているのは、真性なる日本西洋絵画史の再上演であり、かつて高橋由一が意識しなかったリトグラフと日本西洋絵画の断線の考察である。その越え難い溝への自覚と、日本における絵画の出自の特異さが、彼をスタイル構築型の資本主義型レースから、より根源的に日本「西洋画」に取り組むことを目指させた。


3


西洋絵画とは、写真とは違って、対象から反射した光を油絵具に便宜的に置き換えて擬似的に何かを表象している。そもそも地球上の光は科学的に太陽から供給されている。東の方角から上がった太陽は、長い間、心理的にまず先に西洋に降り注いできた。フランス革命において国民国家が発明されて以降、なぜか日本海溝が影になって、日本列島は西側から明るくなってきたのである。鬣は、東から昇る太陽の光が西洋に反射して再び東に戻ってくる僅かな光を、あるフォーマットを使って永遠化しようしている。その形式は、西洋ではPaintingと呼ばれている。鬣が光を追っているあいだ、実は日本はまだほの暗い。彼は「宵の明星」ほどの光を夜を通して捉えるようとする。しかしながら夜明け前、単にそれは東からの光がリトグラフのネガである石灰岩に反射しているだけだということに気がつく。この期に及んで高橋が残した断絶が表面化してくる。鬣はその溝を無視して越えることができない。それゆえに、西洋からの光の「遠さ」と「弱さ」をそのまま描こうとする。結果的に、その光を置き換えた油絵具の彩度は濁り、輪郭はどんどん曖昧になる。そしてまた翌日に、再び宵の明星が現れるのを待つ。


(4)


余談170歳そこらの画家に会った。彼はアカデミックな芸術教育を受けているわけではなく、高校のときの美術倶楽部の顧問からの指導が、厳密に言うと初めての絵の学習である。高校を卒業し、彼は就職することになったのだが、数年後、思い立って東京の芸術大学に行くことした。しかしながら実際には大学には通わず、文房具を扱うビジネスを立ち上げた。かなり儲かった。儲かるたびにもっと金がほしいと思うようになった。それではきりがなくなり会社を売却し、思い立ったが吉日、ローマへと渡った。


イタリアでは毎日絵を描いていた。描きながら、ヨーロッパでの生活を堪能した。一年ほど遊学したのち、日本に帰国した。それ以降はときに働き、ときに絵を売って生計を立てた。大阪で個展を開けばすべて売れてしまうような年もあった。彼の生活はちょうど日本の経済成長と重なっていたのである。


彼の積極的な性格が功を奏してか、ニューヨークでも個展を開くことになった。ちょうど出発する数日前に、もっとも心配の種だった湾岸戦争が終わった。しかし無事に個展を終了しつつも、時代はますます加速度的に変化していった。まず初めに、昔ほど絵が売れなくなった。義理で買ってくれる古い客に申し訳ないと思うようになった。しかし二人目の妻に定職があったがゆえ、彼は描きつつ生活していくことができた。続いてロンドンでも個展を実施した。開催中、彼はなぜか海外のアーティストと交流したいと思うようになった。その会場にて、日本で展示したい芸術家を募集した。応募数は思ったより多かった。これ以後、各国のアーティストとともに、各国の会場で国際的な展覧会を数えきれないほど行った。


その展覧会のシステムは、主に無審査の公募式であり、運送費や会場費を賄うために、基本的には出品希望者からの集金制にした。こういったインスティチューションを介さない私費の国際展覧会にも関わらず、ヨーロッパのとある国では街全体から歓迎を受ける場合もあった。例えば、空港からホテルに向かう道中、なぜか通りには日本の国旗が飾ってあった。不思議に思っていると、翌日、朝食用の自分の席にも国旗が飾られていた。大使や知事がその展覧会会場に訪れて挨拶をすることもあった。


この個人的な制度を始めたころは60歳に近かったが、韓国や台湾も含め、ヨーロッパ、アメリカ大陸にまでネットワークができた。もちろん展覧会をつくることだけではなく、もし国外から友人が来ることがあれば、滞在も含め日本のメンバーが助力した。組織で行うすべての活動をその画家が取り仕切り、段取りをし、ゆえに展示に関しても誰も文句を言わなかった。妻は彼の活動についてまったく口を挟まず、しかし誰よりも彼をサポートした。その画家が躊躇している際には、背中を押したりもした。


(5)


余談2。認知症の妻が亡くなった数年後、その画家も大量の絵を残して死んでしまった。その国際的なネットワークは、彼なしでは作動しなくなった。大量の体系化されていない資料が自宅にあったが、歴史的な価値が高いか低いかどうかもわからないがために、親族によって、間引きされては棄てられ、間引きされては棄てられ、結果的に写真以外は焼却された。ごくまれに国外から郵便が送られてくるが、開封されることもなかった。彼が描いた大量の抽象画は、何にも分類することができず、バブルにあやかることできたローカルな画家とみなされ学問的な調査は入らなかった。自分を語ることや、自分の学歴と経歴を絵に接続すること、流通されることを本意としなかった画家は、まとまった人生歴・展覧会歴を友人に語ることも、ネット空間に落としておくこともしなかった。関わったアーティストたちだけが彼と彼がしたことを覚えていた。ただ、それをまとめて編纂し公共化する必要があるとまで誰も思わなかった。なぜなら彼らもまたアーティストであり、キュレーターではなかったからである。


(6)


鬣くん、制度の外部でやることと、記憶されないことは関連があるんだろうか?


美術館で死後に回顧展が開催されて、関連していた作家がまわりを囲むようなキュレーションで、奥さんの死とかも展示の一部としてあって、キュレーターのテキストもふんわりエモーショナルで、最終的に感動的にまとめられる展覧会と、まったく忘却の彼方に葬り去さられたアーティスト(芸術によって超国家的な関係性を築いていたり)との活動の差は、いったいどこにあるんだろう?


鬣くんは、死後に展覧会とかしてほしいと思う? 本とかつくってほしいと思う?


僕は、SNSやこういったテキストによって、自分のとある作家や作品への占有性を公開しつつ、そこで認知された親密性のヒエラルキーを、自分の権利の度合いとすり替えて行ってしまうキュレーションをいま一番恐れている。


 

▼アウトライン
タイトル: 『鬣くん、最近どんな絵を描いてるの?』
出展作家: 鬣 恒太郎
会期: 2014年8月6日(水)~10日(日)〈全5日間〉
時間: 平日 13:00~22:00 土日祝 12:30~22:00
※2014年8月9日 19:00より、クロージングパーティ
場所: ARTZONE(河原町三条)

 

▼プロフィール
鬣 恒太郎 Kotaro TATEGAMI

1981 兵庫県生まれ
2011 京都造形芸術大学 情報デザイン学科先端アートコース 卒業
2013 京都造形芸術大学大学院 芸術表現専攻総合造形領域 修了

1981 Born in Hyogo Japan
2011 Kyoto University of Art & Design
2013 Kyoto University of Art & Design M.A

個展
2011 「+×÷』HOTEL ANTEROOM KYOTO Gallery 9.5(京都)

グループ展
2009 『kemono effect』0000 Gallery(京都)
2011 『Flowing Narrative Following Narrative』ARTZONE(京都)
2012 『Anteroom Project 』HOTEL ANTEROOM KYOTO(京都)
2013 『京都造形芸術大学大学院修了展』京都造形芸術大学(京都)
2013 『RADICAL SHOW』Shibuya Hikarie(東京)
2013 『AT PAPER. “09”』kara-s(京都)

その他
2010 「コレクション展目には見えない確かなこと/椿昇『エステティック・ポリューション』壁画制作」 金沢21世紀美術館(金沢)

 

Solo Exhibition
2011 “+×÷” HOTEL ANTEROOM KYOTO Gallery 9.5, Kyoto Japan

Group Exhibition
2009 “kemono effect” 0000 Gallery ,Kyoto Japan.
2011 “Flowing Narrative Following Narrative” ARTZONE, Kyoto Japan.
2012 “Anteroom Project” HOTEL ANTEROOM KYOTO, Kyoto Japan
2013 “Kyoto University of Art & Design M.A Completion Exhibition” Kyoto University of Art & Design, Kyoto Japan
2013 “RADICAL SHOW” Shibuya Hikarie, Tokyo Japan
2013 “AT PAPER.09” kara-s, Kyoto Japan

Other works
2010 “Collection Exhibition: Invisible Reality / Aesthetic pollution (TSUBAKI Noboru) Mural” 21st Century museum of Contemporary Art, Kanazawa, Kanazawa Japan

 

写真: 守屋友樹